理事長エッセイ

先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り

令和5年8月1日
理事長 安井俊明
『型』による学び  復活を
   ――型体得が  学習の原点であり
     型体得は  創造的な仕事の源となる――

 みずみずしい青田が、幼稚園の周りに広がっています。その一瞬日本を感じ、私達の文化や歴史に思いを巡らす一時でもあります。この気候風土が 稲作を基本とする日本の文化をかたち作り、水田に張られた水が夏の猛暑を少し和らげてくれます。
 今回は、人の学びについて触れたく思います。
人はどのようにして学んでいくのかを考える時、昨今は、学習は頭でするものだという風潮が広がっているように思います。しかしながら学ぶ際は、挨拶や立ち振る舞いなど『型』から入るというのが、日本の先人たちの教えでした。現在は、情報は必要な時にインターネットで調べればいいとの風潮ですが、「暗誦でき身に付いたもの」が教養であり、「その場その場で、自分で自分(考え・精神・そして身体までも)をコントロールできる能力」が、知性と言われるものでしょう。
 『型』という言葉は、昨今の「型にはめる」というイメージからの否定的な使われ方が多く、それに対して自由、個性などの言葉の方が好印象をもたれているようです。
ここで明治大学教授の斎藤孝氏の言葉をいくつか紹介しましょう。
「物理を学ぼうとする人が、ニュートンやアインシュタインが確立した学問体系を素通りして創造性を発揮できるわけがない。だが現代人は、先人の蓄積を飛び越して個人の創造性がいきなり生まれると思いがちだ。これは素朴というより無知に近い。文化は積み重なるようにしか発展しないのに…。すなわちその分野の型や基本を知らずに、自由にやるのがよいことだという開き直りの態度が幅を利かせるようになった。」
「自由にやりたいという若者の気持ちもわかるが、その自由自体が、型や反復でしか身に付かない技で維持されている。自分のやりたいようにやるだけなら、それは単なる自己流で、それ以上は伸びない。型を身につけた人は余裕ができ、複雑な課題も考えずに処理でき、その先の創造性にもつながっていく。先人が編み出した究極の学習法が型なのだ。」
テレビや映画でも活躍する狂言師の野村萬斎さんは、「基礎となる『型』は、知識ではなく体得するもの。型にはめるのは没個性のように考えがちだが、使いこなすうちに型は様々な個性や表現となっていく。子供の頃は鋳型いがたに入れられるようだったが、骨ができて自分の肉がついてくると面白くなり、新しい世界が広がります。これこそが本来の自由であり個性なのです」と指摘されています。まさに守破離の世界です。
☀この味が いいねと君が 言ったから 七月三日は サラダ記念日
☀寒いねと 話かければ 寒いねと 答える人の いるあたたかさ
☀親は子を 育ててきたと 言うけれど 勝手に赤い 畑のトマト(サラダ記念日より)
など五七五七七に新風を吹き込んだ現代歌人・俵万智さんは、型というものの重要さを強調し、「意外に思われる方も多いのですが、私は五七五七七の型は厳密に守っています。それが言葉に力を与えてくれるのです。よく五七五七七を壊したいかと言われるけれど…」
これらお二人は、ともに千年紀(ミレニアム)以上の歴史と伝統を持つ日本の文化と芸能の世界に生きている。そのお二人が口をそろえたように『型』というものの重要さを強調している。古典には表現の型というものがあり、人々の日々の営みの中で培われた伝統として残ってきた。それが千年の蓄積の強みとなり、表現となって、現代感覚を生かすことが出来る。
型の重要さをスポーツの世界から取り上げてみましょう。
大相撲で史上最多の45度の優勝を誇り、引退した大横綱白鳳関は、大相撲を目指す子供達や若手力士に対して、「基本を大事にし『型』をつくること、そして型ができた時に型を破る。まさに型をもって型にこだわらない、そうすれば必ず強くなっていく」とメッセージを送っています。まさに守破離そのものです。
100Kgのない小兵力士であった舞の海関は、ここ数場所、早々と優勝争いから脱落し、ふがいないと言われ続ける大関陣に対して「型を持っていないことが低迷の原因だ。誰にも負けないという型を作らないまま大関に昇進したところに悲劇がある。日々の稽古は自分の型を見つけ出すためにある。そして自分にあった型を見つけたところが終わりではなく、始まりだ。型の存在は、文化や芸能、スポーツ、音楽などに関してだけではなく、国の歴史や文化の中にも、一つの型が見られる」と述べられています。
ピアニストの中道郁代さんは「型があるから、そこに新しいものが生まれてくる」と、型の大切さに触れておられます。
元大阪教育大学(附属)音楽科の諸石先生は、「芸術はすべて模倣から入る。型の模倣から入る。型の模倣をきちっとせずに、自由勝手にやった人は伸びない。これは教育においても全く同じである。」さらに「安松幼稚園の子供達は、2~3年をかけて、歌唱や言語の領域、挨拶などの人間関係においても、基本となる型を学び、知識の蓄積を行っている。将来的には、創造的な仕事ができるようになる素地が養われている。そして児達が、そういう型による学びと反復を徹底できるのは、安松にいる情熱的な先生方がそれを支えているからである」と仰っています。
●安松幼稚園に入園してしばらくすると、多くの児がその場にふさわしい挨拶が自然と出てくるようになります。朝は「おはようございます」帰りは「さようなら」体の調子の悪い子には「お大事に」病気が治って登園してきた児には「治ってよかったね」等々。言葉だけではなくて、ちょっとしたお辞儀も添えて!!
このように人としての軌道に乗っていくのも、挨拶における一つの型の習得と言えるでしょう。頭の中だけではなく、言葉や体の動きが身に付き自然に出てくることこそ型の強みなのです。

●最後に 『教育とは一つの型を次の世代に伝えること』とも言えると思います。
『型』体得が学習の原点であり、『型』による学びの復活を強く望むものです。