理事長エッセイ

先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り

平成17年新春
理事長 安井俊明
新年明けましておめでとうございます
―――日本よ 元気を出そう―――

 新年明けまして おめでとうございます。
本年が、皆様にとって、心豊かな年になりますよう念じています。
また日本の子供たちの健やかな成長を、皆さんと共に念じたく思います。

 さて埼玉大学の長谷川三千子氏は、混迷する現在の日本(日本人)の姿を、「溶ける背骨」と表現されましたが、まさに言い得て妙だと感じます。
 私自身はこの20年ばかり、日本の歴史や文化を知れば知るほど、日本に愛着を感じ、日本をより誇りに思うようになりました。
 私が相愛高等学校・中学校の校長の折、相愛同窓会(平成14年6月16日)において「日本よ 元気を出そう」という演題で講演しましたが、その内容への想いは、2年半後の現在、さらに強くなっています。
 新春に当たり、ここに掲載し、皆様のご批判を頂きたく思います。(相愛同窓会のH.Pからの引用でもあります)


平成14年度相愛同窓会 講演
『日本よ 元気を出そう!』
平成14年6月16日 
安井 俊明 学校長先生

学校長先生の講演でのお話をHPでご紹介させていただきます。


本日の演題は、「日本よ 元気を出そう」であります。
この演題を選びましたのは、3,4日前の新聞のアンケート結果に影響されたためです。それは高校生を対象に、「自分に誇りを持てるか」「自分の国に誇りを持てるか」というアンケートでした。
 日本の高校生の多くは「誇りをもてない」と答え、その率は、他国の高校生に比べて圧倒的に高かったのです。そしてこの現象は、高校生に限られたものではないと思います。昨今の色々な出来事をみるにつけても、日本人は、かくも気概や侠気を失くしてしまったのでしょうか。なぜ誇りや自尊心を捨ててしまったのでしょうか?
 それは私たち自身が、日本のことをよく知らないからだと思います。
「日本よ 元気を出そう」その為には、日本をよく知る必要があります。本日は、私の日本分析――日本観について話します。

数千年以上の歴史をもつ日本を、僅かな時間で論じようというのですから、あまりにも無謀ですが、私は次の3点を挙げたく思います。

第1点

日本語の成立過程と、文字・文章の獲得について>

第2点

鎌倉時代(13世紀)の人々の考え方と、リアリズムについて

第3点

江戸時代(中・後期)は、各地方に個性的な文化が育つとともに、
武士の時代というより商人が活躍した時代であった について


第1点

 私たちが現在使っている日本語は、母音の多い言葉です。子音の次には必ず母音がきます。そして単語の最後は、必ず母音で終わります。これは、ポリネシアやインドネシアと同じ類となる太平洋民族(南方的要素・母系文化)の言語の特徴です。
 ところが、今述べたように一つ一つの単語は南太平洋的な特徴をもつのですが、文法は、シベリアの森林地帯のトゥングースからトルコ、モンゴル、朝鮮に至るアルタイ系の言語なのです。
 現代にまで引き継がれている日本語の成立について大胆にいうなら、かなり以前は南方系の言語が日本のある地域で使用されていたが、弥生時代になって、北方的文化と言語がその上にかぶさり、広まり、現在にまで続いているといえそうです。(日本人は異文化を取り入れ、それを自分たちにあうように上手に昇華していくと言われていますが、言語の成立過程においてもそういうことがあったのでしょうか?)


 さて次は、文字(自己や他人の思想や感情の表現を、目で見える形に変える新しい技術)の獲得についてです。
 南方系言語の上に北方のアルタイ系の言語がかぶさったと推察できる日本語ですが、日本人たちは、どのようにして文字を獲得していったのでしょうか?
 さて日本人にとって最初に出会った文字は、漢字であり漢文でした。
当時の大陸の言語と日本語とは、言語の構造の上で、根本的に相違していました。その相違を克服し、自己の言語(日本語)をその特徴のままに自由にたやすく早く表記したいという欲求がでてきたのは、自然の成り行きでした。

例えば

最大の苦痛である語順の相違を、日本語にあわせて書きたい。

大陸の言語には無い助詞や助動詞を正確に文字に書きとめたい。

等々


8世紀、9世紀頃の日本人は、漢文と呼ばれる中国の書物を日本流に読み始めました。(司馬遼太郎氏によりますと、外国語の書物を日本語のやり方で読み始める。こんな奇妙な外国語獲得の作業をした民族は、世界史に日本人以外に無いそうです。)
 中国語は、単語の一つ一つがレンガのようで、それらのレンガを積み上げて文(漢文)を構成しています。日本人は漢文を読むにあたって、積み上げられたレンガをばらばらにし、並べ替え、そのレンガの一つ一つを助詞という接着剤でくっつけました。その過程において、平仮名(片仮名も)をうみ出したのはいうまでもありません。
 数世紀にまたがる作業の結果、10世紀から11世紀にかけて、古今集・源氏物語・土佐日記 等々の日本語によって書かれた文学作品が誕生しました。
 以上のように、日本語は今から千数百年前に漢語をふんだんに取り入れ、漢語と和文の調和により、叙事・叙情のみでなく形而上的な抽象的な概念も表現出来るようになりました。現代に生きる私たちは、このことについて先人たちを誇りに思い、大いなる尊敬と感謝をいくらおくっても、おくり過ぎることはないと思います。世界には、母国語で、哲学や数学や物理など、またそれらの教科書や学術論文等を表現できない国が数多くあります。そのことを思うとき、私は、千数百年の鍛錬を経た日本語に対して敬意を表したく思います。


第2点

 鎌倉時代に話はとびます。
日本は、それ以前においては「農地は国家が所有する」という土地公有制でした。その制度は、徐々に崩れつつあったのですが、13世紀になり「土地は、耕した者に所有権がある」とする鎌倉幕府が誕生しました。一所懸命という言葉が、その精神を伝えています。
 武士といっても、鎌倉時代の武士は、武装した農場主でした。
 「土地は、耕した者に所有権がある」という考え方は、日本的合理主義につながり、個人というものの自覚が芽生えてきました。そして人間の思想にリアリズムを与え、彫刻(仏師運慶・湛慶の作品等)や絵画も写実的になりました。
 浄土真宗の宗門校に集う私たちにとって、親鸞聖人の口述録「歎異抄」はとても大切な書物です。それは、哲学的な叙述ながら明晰そのものの文体で、13世紀の文章の最大の収穫のひとつと言えると思います。しかしこの書物の成立には、私の言うところの第1点(自己の言語をその特性のままに自由にたやすく早く表現出来る文字・文章の獲得)と、第2点(個人というものの自覚)が前提として必要だったと思います。鍛錬を経た文章とその時代の精神の2点があいまって、13世紀に「歎異抄」を世に送り出したのです。


第3点

 話は江戸時代にうつります。
江戸時代の大名・武士階級は、土地もちではなく統治権と租税徴収権があるだけでした。お百姓は、ほとんど自作農でした。
 政治体制は、米穀経済に基盤を置いていましたが、商業に寛容で、そのしめつけは緩やかでした。中期から後期にかけて商品経済が勃興し、貨幣経済が発展しました。貨幣(商品)経済は、人間を現実的(実証的)にします。品物や労働について、数・量・質について考えるという合理的な面が前面に出てきます。さらには、人間の認識力が鋭くなり、かつ個人の自由への欲求が強くなります。(淡路島出身の高田屋嘉兵衛が商取引によって函館という町を大きくし得たのも、かなり自由な商いが許されていた証でしょう。)
 13世紀の鎌倉時代に芽生えた日本的合理主義はより一層すすみ、江戸時代において、日本をより日本たらしめました。
 江戸中・後期の商品経済の活発化(早期資本主義)は、社会的にも色々なゆとりを生じました。侍は当然学問をする階級でしたが、生活の必要性から庶民の子弟も初等教育の塾に通いました。この時代の識字率は7、80%といわれています。
 この江戸時代の社会の構造(日本的合理主義の背景にある商品経済の活性化・日本の各地域で個性豊かな文化を生み、識字率を7、80%にまで高めた多様な教育制度)からくるエネルギーが、また個々人の精神の在り様(今回は残念ながらあまり触れられませんが、渡辺京二氏の『逝きし世の面影』などお薦め)が、明治時代の透きとおったリアリズムにつながったと思います。が、その遺産は、どこへいってしまったのでしょうか?


既に与えられている時間を過ぎてしまいました。
外国のある方(世界の国々の歴史や文化ならびに地球規模での文明比較論等に造詣の深い方なのですが、お名前が出てきません)が、「世界で残したい国の名前をいくつかあげろと言われるなら、日本は必ずその中に入る」と、話されています。
 以上述べましたように、日本の歴史を振り返るとき、日本は個性的で、先人たちも心豊かで優しく、いろいろな面において才能豊かです。
 今の日本は、社会の構造においても個々の精神の在り様においても大変な時代ですが、歴史を知れば知るほど、日本を誇らしく先人に感謝したくなります。

日本よ元気を出そう!!
相愛よ元気を出そう!!

  

と皆様に呼びかけ、終わりと致します。
ご静聴ありがとうございました。

最後に:相愛同窓会における講演の概略(ダイジェスト)でしたが、
あえて現時点で修正を加えずに掲載しました。