理事長エッセイ

先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り

平成23年1月1日
理事長 安井俊明
子供中心主義・児童中心主義の終焉を願って

Ⅵ章.あるべき教育のすがたとは

 子供には成功も失敗も経験させなくてはならない。
失敗して少し傷ついて、それに耐えることを通して、子供は「我慢力」というものを養い、物事に対する「耐性」を身につけていく。
子供中心主義・児童中心主義の「子供を傷つけない教育」のたどり着いた先が「ゆとり教育」。そしてそこから日本中の学校に荒廃が広がった。


児童中心主義から、先生と子供は平等ということで、教室から教壇が取り去られ、先生は指導者ではなく支援者と呼ばれるようになった。

● 私は、「子供は弱者だから傷つけてはならない」という考え方からは、しつけや教育はできないと考えます。九九や漢字なども、もちろん子供の発達段階は大切にしながらも、適切な時期にたたき込む意外にないのです。
 昨今、授業の指導案のことを支援案と呼んだり、先生のことを指導者と呼ばずに支援者と呼ぶようになりました。とんでもないことです。
ここにも子供中心の思想が押し寄せています。

●体育の先生である原田隆史さんの一文を紹介しましょう。

先生は「支援者」という大間違い


 あるとき、見学した柔道の公開授業ではこんなこともありました。
指導プランはいいのですが、教師は何も指導せずに組み手ばかり自由にさせています。生徒がいつケガをするかわからないほど危ない状況です。
 「なぜ教えないのか」と相手の先生に聞くと、「先生、知らないんですか。私は指導はしません。支援をします。」と、胸をはって答えます。
 ここ数年、教師=支援助言者 というのが指導のモデルになっています。支援というのは生徒を支える側にまわりなさい、生徒が聞きに来るまで、やる気が出るまで待ちなさいという生徒中心の発想です。
 しかし実際には、柔道をさせていて左足をもっと内側に入れなければ危ないと思えば、それを教えるべきです。安全のために多くのことを教えて身につけさせなければなりません。支援という言葉を使っても、言葉にだまされて、「教えなくてもよい」ととるのは大変な誤解です。


注:支援という言葉を使う人たちが、「支援という言葉の意味のなかには指導も含まれる」と主張されるかもしれません。しかし単語には、その単語が表す本来の意味があるわけで、ペンはペンであり、鉛筆は鉛筆なのです。支援という言葉が指導をも表すというには無理があり、現場においては、上記のような混乱・理解のされ方になるのは明らかです。適切な言葉を使用してほしいと考えます。

● ここで再度 H.P.の理事長エッセイ ■H22.1.1混迷の日本・教育について考える(NO.2) より一部引用します。


[教育の本来あるべき姿]

 次のことは明確な真理です。

教育は、特に幼児期から義務教育にかけては、強制を伴うものです。(ただその強制には強弱があり、各個人が強制されているという意識を持たない場合も多いですが……)
6歳から小学校に行かなくてはならないというのも、強制そのものです。
例えば、「おはようございます」「さようなら」「お大事に」などの日常の挨拶も、周りの人がしているのを見て自然に真似るようになるか、それとも、親や先生からある段階でその道理をきちっと教えられるかという、強制の強弱の違いはあっても、人間はそういう強制の中で、人としての軌道に乗って行きます。
幼稚園児の歌にしても、小中学校での漢字や九九の指導にしても、中学校での色々な教科指導にしても全て強制から入っていきます。しかし年齢が長じるにつれ、興味を持ち自主的に学びや研究を続けていくという事が起こってきます。
親と子が、そして先生と生徒が、友達の関係になっては、指導や教育はできません。
友達の関係にならないと心が通じあわないというわけでは、全くありません。
自分のことを心から願い指導してくれる親や先生に対して、子供は心を開き、その権威に対して敬いの心を持ちます。
ここを離れて、子育てや教育はあり得ません。
「子供は弱者だから傷つけてはならない」という考え方からは、しつけや教育はできません。児童中心主義・子供中心主義からは、Ⅱ章で述べた子供の耐性は育ちません。

次に3人の方の意見を紹介致しましょう。

●大村はまさん「教えることの復権【1】」より

 戦後の一番の失敗は、先生方が教えることをやめたことにあります。教えることは押し付けることで、本人の個性を失わせると、そういう話がたくさん出たでしょ。そういうのがちょっとしゃれて聞こえた。
 戦後の教育の大失敗ですよ。
先生とは教える人でしょう。教えることを手控えてしまって、あの頃から教師が教師とは何をする人かというのを忘れたのではないかと思う。
「自由にやってごらん」と言って、先生はただ見ているだけ。「これでいいのでは」とか「こんなことを考えてみたら」とか、はっと気付くようなことを言えるのが教師ではないの。
 教師が教えることをしないで何をするのですか。好きなことだけでなくて、嫌いなことでもやらなければならないことはやる。そういう人に育てるのでしょう。好きなことだけしかしないという自分勝手な子に育ててはいけません。


●藤原正彦 & 曽野綾子 「日本人の矜持【2】」より

藤原:いま、日本の教育を覆っている最大の病弊とは何か。それは子供中心主義です。
「子供の個性を尊重せよ」「自主性を育む」「子供の人権」と、現在もてはやさ れているスローガンは、すべて子供中心に据えられている。
 私に言わせれば、「子供の個性」のほとんどは、悪い個性なんですね。
野菜を一切食べないとか、親の手伝いをしないとか、テレビを毎日7時間も見るとか、授業中に歩き回ったり私語をやめないとか、嫌なやつをぶん殴るとか。
要するに、「わがまま」の言い換えに過ぎない。
 いい個性のほう、例えば算数ができるとか,かけっこが速いとか、弱い子に優しいといった個性は伸ばすのは当然で、わざわざ目標に掲げるまでもない当たり前のことでしょう。
 その意味で、私は原則的には、子供の個性は踏みにじれ、という立場なのです。
曽野:賛成です。そもそも教育というのは、子供が嫌だろうと何だろうと、大人の側から少なくとも最初だけは高圧的に与えるものだと思います。そうでなくては、しつけや教育というものは、初めから成り立つはずがない。教育は強制を伴います。
藤原:やはり親や教師は、言葉遣いでも、暮らしの中のしつけでも、自分が本当に正しいと思っている価値観を、ときに威圧してでも押し付けるほかない。嘘をついたり小さな者や弱いものに暴力を振るったら、問答無用で叱りつけなくてはならない。
生まれてから10歳くらいまでの間に大人に教え込まれた価値観は、長じて自分の価値観を形成するために必要不可欠な踏み台となります。
そういう価値観と共に、子供の将来を思う時、子供が嫌がっても、基本的な漢字や読み書き・九九などを、幼少期にたたきこんでやる。これが本当の親切です。
「子供の個性尊重」は、実は子供が本当に自分なりの価値観を作っていくのに必要なものを奪っている。その実態は、「子供の将来に責任を負わず、わがままを助長する」だけであって、百害あって一理なしです。


●川嶋優「日本人として大切にしたい品格の躾け【3】」より

 先生は支援者という大間違い
 今から20年ほど前になるでしょうか。
教育界におかしな風潮が出てきました。教育者や有識者たちが、「教師は指導者になってはいけない。支援者にならなくてはだめだ」と、言い始めたのです。授業の指導案も支援案というべきだと云われました。
生徒たちの好きなようにするのに任せ、子供の横や後からついて行くだけなら、指導者ではありません。
 同じころ、「子供の目線で」という言葉も流行りました。
子供と同じ目線に立つのは友達です。子供の心を理解するために、たまにはしゃがんで目線を同じにしてもいいでしょう。しかしあとはすくっと立って、立派な先生にならなくてはなりません。そうしなければ、お給料をもらう資格はありません。
親にしても教師にしても、権威があってこそ、教育の効果が上がります。権威とは威張り散らすことではありません。この人の言うことを聞いておけば間違いない、信じてついて行くことが出来るという信頼関係の上に立つ存在のことです。