理事長エッセイ

先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り

令和4年8月1日
理事長 安井俊明
惻隠の情
卑怯を憎む心
惻隠の情 卑怯を憎む心
幼児期にこそ この 2 点を育みたい
幼児期にこそ この 2 点を育みたい

 世情の騒がしさに加え、6月末の猛暑も、なかなかに厳しい一学期でした。が、子供たちは暑さに負けず、元気な声を出し活発な動きと、私たち大人に色々と元気を与えてくれます。
 安松幼稚園の教育の柱は 

❶美しいものを見て心震わせ感動する心 美的感受性・情感・情緒を育みたい

❷子供の周りから困難や障害を取り除くのではなく、それらを乗り越え最後までやりぬく力を育みたい

の2点です。
ここから本題です。
【Ⅰ】最も重要なことは論理では説明できない 
現在のロシアのウクライナ侵攻を見れば、論理の破綻は明白でしょう。ウクライナにはウクライナの論理があり、ロシアにはロシアの論理があります。その論理が共に衝突し、破綻したのが今の現状です。論理では解決できない事柄はいくらでもあるのです。
 古今東西あらゆる時代のあらゆる場所で戦争をして、全ての人が「こんなバカバカしいことはない」と涙ながらに反省して、そしてまた戦争を繰り返してきました。どの戦争にも当事者双方に論理がありました。
 次に、藤原正彦先生著の「国家の品格」から一部引用します。
 数学の世界でさえも論理で説明できないことがある。まして一般の世界では、論理で説明できないことの方が普通です。
例えば「人を殺してはいけない」ということだって、論理では説明できません。十年ほど前にこんなことがありました。日教組の教研集会で、傍聴していた高校生が会の最後の方になって、「先生、なんで人を殺しちゃいけないんですか」と質問した。そこにいた先生たちは、誰一人それを論理的に説明できなかった。びっくりした文部省が、「人を殺してはいけない論理的説明をパンフレットに作成中」と新聞に書いてありました。読んで笑ってしまいました。
 人を殺していけない論理的理由なんて何一つない。
人を殺していけないのは、「駄目だから駄目」ということに尽きます。「以上、終わり」です。論理ではありません。このように、もっとも明らかのように見えることですら、論理的には説明できないのです。
【Ⅱ】会津藩の教え ならぬことはならぬものです
 江戸時代の会津藩に日新館という藩校があり、入校前の子弟に対して「什の掟」というのがありました。数点拾ってみます。

イ虚言を言うことはなりませぬ

ロ卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ

ハ弱いものをいじめてはなりませぬ

これらを含む七ヵ条の最後は ならぬことはならぬものです という文句で結ばれています。
要するにこれは理屈なしに、「問答無用」「いけないことはいけない」と言っている。ここが最も重要です。上記イロハは論理で説明することは出来ない。そこで「ならぬことはならぬものです」と、価値観を押し付けたのです。 
上記の3点イロハを大切だと感じるのは、理屈ではなくて、その人の持っている人生観、生きる姿勢、その人のもつ美的感受性・情感・情緒なのです。すなわち、どのような先生や友達や人と触れ合ってきたか、どのような小説や詩歌・音楽・絵画・自然の美しさなどに感動してきたか、どのような楽しい出会いや悲しい別れを経験してきたかなどの宗教的情緒をも含めた総合力なのです。
 本題の「卑怯を憎む心」や「惻隠の情」また会津藩の上記の掟イロハなどの3点は、論理から生まれるのではなく、安松幼稚園が大切にしている❶感動する心や情感・情緒などが母体となっているのです。
【Ⅲ】惻隠の情 卑怯を憎む心 
 幼児期には、この2項を心に染み込ませたいと、私は考えます。
 「卑怯を憎む心」の意味は分かりやすいと思いますので、ここでは「惻隠の情」について少し話してみます。
「惻」には推し測るという意味があり、自分の事だけではなく相手の状況や心の有り様を推し測るのです。
「隠」には哀しむという意味があり、相手の悲しみに共感する心です。
まさに仏教でいうところの「慈悲の心」に近いのです。新渡戸稲造は著書『武士道』の中で、武士道の最高の美徳として「惻隠」を最も重要視していました。
 本題にある 惻隠の情 卑怯を憎む心 が大切ということには、論理的理由なんて何一つない。論理や理屈ではなく、人として大切だから大切なのです。問答無用に大切なのです。 
幼児期にこそ、この二項目を、会津藩の教え ならぬことはならぬものです と同様に体に染み込ませたいものです。
皆さんはどのようにお考えになりますでしょうか。
 猛暑の中、どうぞご自愛ください。