理事長エッセイ
先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り
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思考・創造力と知識・記憶力は 対立するものではない
学びて思わざれば すなわち罔 し
思いて学ばざれば すなわち殆 し
―― 学びて思わざれば すなわち罔 し
思いて学ばざれば すなわち殆 し ――
大阪北部地震また今回の大雨で亡くなられた方、被災された方々に心からお見舞い申し上げます。
一学期の終了に当たり、創造的な仕事は何処から生まれてくるのであろうかについて、少し述べたく思います。
昨今、幼稚園の研究会などにおいて、「子供達自身の力で問題解決の道を探らせよう」とか「討論させることによって、自分たちで解決法を見つけさせよう」とか「子供の自由な発想を大切にしよう」等の掛け声が大きくなり、この主張に与(くみ)する人が多くなっています。
一見耳あたりよく聞こえますので、「個人の自由な発想・のびのび・個性(考えること)」の主張は、「基本・型・知識(学ぶこと)」の主張を大きく凌駕しているように思われます。
日本の社会において感情論ばかりが幅を利かせる昨今、こういう風潮に対して、私は、「おいおい、子育てや学習・研究において、どういう手法をとるかは、発達段階・年齢・扱っている事柄の理解の度合いなどによって大きく変わってくるだろう」と、一言言いたくなります。
本来「学ぶ」ことと「考える」ことは、相反するものではありません。この両者の上に、美的感性が作用して、創造的な仕事、独創的な発見がなされるものと、私には思われます。
何人かの先達の言葉を聞いてみましょう
●社会学者竹内洋先生によると、2021年から「大学入学共通テスト」が実施される。そこでは思考力や判断力、表現力、さらには主体性、多様性、協調性を問う試験改革とされている。が、果たしてうまくいくものか?新入生のための基礎ゼミで本を読ませようとすると、こんな反応が返ってくることがある。「先生、本など読むよりディスカッションにしましょうよ」 なるほど、今の学生は大勢の前で臆せず自分の意見を言う。しかし基礎知識が十分でない所で問題を論じるから、井戸端会議や、本質を掘り下げることのない表面のスクープだけの出来の悪い週刊誌、雑談の類でしか物事を語れない。基礎知識がないから、考えることもできず、自由な発想、創造的な仕事などとてもできない。と述べておられます。(平成30年2月13日産経新聞)
私は、あるべき姿として、基礎学力が土台にあって、それらの基に思考力や応用力が展開され、それらの展開の中で、基礎学力の奥行きが深まるという風に、知識と思考の間には相互作用があると考えます。
論語に
学びて思わざれば すなわち罔し
(いくら知識を学んでも、自分で深く考え思索しなければ、その知識は意味を持たない)
思いて学ばざれば すなわち殆し
(自分で勝手にいくら考えても、基本的な事を学んでいなければ、その思い・思考は独断に過ぎず砂上の楼閣であり危険である)
とありますが、この論語は、まさに、知識と思考は対立するものではなく、それらはお互いに作用し合って調和しあうのだということを述べています。
●ノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥先生は、中高生に対し、将来へのビジョンを持って、努力を続けることの大切さを語られた中で、「中学や高校の間は、目の前のことを一生懸命やる『ワークハードが大切』」と、まず学ぶことの重要性を説かれ、その中での経験が、将来に役立ってくるだろう」と呼びかけられました。(平成30年6月18日富田林市における講演)
中・高において、先ず学ぶことの大切さを説かれているのですから、幼児期においては、学ぶことの比率ははるかに高くなり、学ぶ中には、躾がきちっとなされることも含まれることでしょう。
●日本で初めてノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹博士は、著書“創造的人間”の中で、「創造力は記憶力に比例する」と述べられ、知識を頭に詰め込むことを単純に否定する考え方には、警戒が必要であるとし、創造力と記憶力を対立させることの誤りを指摘されました。
「記憶というものは極めて重要であって、創造的な仕事は、相当量の系統だった知識の蓄積(記憶)があってこそ初めて可能なのです」と述べられています。
●明治大学教授で日本語ブームを起こした「声に出して読みたい日本語」の著者 齋藤孝さんは、物理を学ぼうとする人が、ニュートンやアインシュタインが確立した学問体系を素通りして創造性を発揮できるわけがない。だが現代人は、先人の蓄積を飛び越して、個人の創造性がいきなり生まれると思いがちだ。これは素朴というより無知に近い。文化は積み重なるようにしか発展しないのである。と述べられています。
芸術の分野においても同様で、知識・記憶を基本・型と置き直せば、全く同じことが言えるでしょう。
●狂言の野村萬斎氏、現代歌人の俵万智さん、ピアニストの仲道郁代さんは、同様に「型の大切さ」そして「型があるから、そこから新しいものが生れてくる」と、おっしゃっています。
●元大阪教育大学 音楽科諸石先生は、「芸術はすべて模倣から入る。型の模倣から入る。型の模倣をきちっとせずに、自由に勝手にやった人は伸びない。これは教育においても全く同じである。(ここでいう模倣とは忠実に学ぶと同義語でしょう)」
さらに「安松の子供達は、2~3年をかけて、歌唱の分野や挨拶などの人間関係においても、基本となる型を学び、知識の蓄積を行っている。将来的には創造的な仕事が出来るようになろう。また子供達がそういう型による学びと反復を徹底できるのは、安松のような情熱的な先生がそれを支えているからである」と、いつも話されています。
私は、年齢の低い園児生徒を対象とする教育においては、「教育とは、一つの型・基本・知識を次の世代に伝えることである」と、言え換えられると思います。
この稿の最初に、「創造的な仕事はどこから生まれてくるのであろうか」と記しました。
私は、基本・型を学び知識を記憶で蓄積させた上に、その人の美的感受性が作用し思考すれば、そこに創造的な仕事がなされると確信します。思考や創造的な仕事は、何もない所から、いきなり生まれるのではないのです。
注意すべきは、学び(知識・記憶)と思考(創造)を対立する概念として捉えないことです。
繰り返せば、創造的な仕事は、学びによる知識と記憶に裏付けされた知識の上に、美的感性が作用し、思考・自由な発想が展開され、生まれてくるのです。もちろん学びと思考の割合は、年齢とともに変化することでしょう。
最後になりますが、子育てにおいても全く同じです。
乳幼児期から10歳ぐらいまでは、「おはようございます」「おだいじに」などが自然に出てくるような基本的な躾が大切であり、これがあってこそ、幼児は人としての軌道に乗っていくことが出来る。そして幼児であっても自分の思い・意志を明確にはっきりと述べることにつながっていきます。安松幼稚園の子供達は、この点においても輝いています。
一方、学びにおいても、漢字などの読み・書き、そして算数の基礎をきちんと学ばせる必要がある。その後成長するにつれ、今まで学んできた知識の上に、それぞれ独自の美的感性、思考が重なり、個性溢れる仕事が出来るようになっていきます。
2~3歳の発達段階における子育てや幼稚園選びにおいて、個性・自主性を重んじ自由に伸び伸びという