理事長エッセイ
先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り
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伝えるべきは誇り高き日本の文化
―― 童謡にしても俳句にしても
早く触れないと大人になっちゃいますよ ――
本稿の目的は、安松幼稚園における唱歌童謡・俳句の指導について述べることにありますが、最初にそれらの教材の根っこ(基本)について少しお話ししたく思います。
幼稚園もしくは小学校の教育活動において、残すべき教科を一つだけ選べと言われた場合、それは疑いもなく国語(言語の領域)であります。
もちろん体や情緒の発達の面から、体育や音楽などの芸術もとても重要ですが、一つだけとなると、明らかに国語が最重要科目となります。私は母国語こそが文化の中核であると思っています。
お茶の水女子大学の名誉教授であり数学者の藤原正彦さんは「小学校では、一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、あとは十以下なのである。」とも述べておられます。戦前の時間割を見ると、小学校4年生までの総授業時間の半分は国語である。これに算術と修身を加えると全体の8割を占める。見事である。現在は、戦後の薄っぺらい平等主義が教育課程編纂の中にも入り込み、教科間の形式的な平等が優先され、子供の発達について考慮されていません。
それでは、国語の大事な理由を挙げてみましょう。
【理由1】
母国語こそが全ての知的活動の基礎である。読み書きの基礎というばかりでなく、思考そのものと深く関わっている。人間は、言葉(主として母国語)でもって色々な情感を訴えたり考えたりするのである。それ故人間は、自分の持っている語彙以上のことは考えられないのであって、母国語の語彙をきちんと身に付けないと充分な思考すらできなくなる。「ウッソー」「超ムカツク」などの語彙でもってしか自分の気持ちを表現できない者は、思考においても、その程度でしかない。私達にとって語彙を身につけるとは、多くの場合、漢字について知ることにつながる。(補:私は以前から、日本の学校教育における「漢字の読み書き同時指導」が日本人の国語力を弱めている大きな原因だと考えています。子供の発達段階を研究すれば、子供にとって漢字の読み(それも画数の多い漢字を含めて)は、とても簡単なことが分かります。漢字の読みを先行させることが、どんなにか日本人の国語力を高めることになるか!!目覚めよ文部科学省と続けたいところですが……)
【理由2】
人間の実体験は大切であるが、限りがある。国語を用いて読書を通じて、人間としての情緒や道徳(人のあり方)を学ぶ。国語は、誠実、慈愛、公正、勇気、正義、忍耐、礼節、惻隠の情、卑怯を憎む心、もののあわれ 等々を学んでいく起点でもある。
【理由3】
国語こそが民族の生命線である。戦争に負けて国土を占領されても民族は滅びないが、言語を一世代にわたって奪われる(使用禁止にされる)と、民族は滅びる。民族としての情緒、道徳、文化、伝統の中核に、母国語があるからである。
実は安松幼稚園そのものが、本稿の主題に深く関わっている。その設立趣意書に「心身共に健全なる幼児の育成に努め、以て文化日本の建設に九牛の一毛にてもお役に立つべく決心致した次第です」とあるのですが、戦争に負けたあと、文化国家日本の再興を掲げて、安松幼稚園は設立されたのです。
このことを頭に置かれて、次の各論「唱歌・童謡」「俳句」をお読み下さい。
安松幼稚園で唱歌・童謡を大切にしているには二つの理由があります。
一つは音階そのものが美しく、歌っているだけで日本的な情緒が身に付く
二つめは、詩そのものが美しく、高尚な情緒が身に付く という二点です。まさに前半で述べた国語教育の基本の部分と合致しているでしょう。
今年の6月の園内音楽会では、「さくらさくら」が歌われました。
元大阪教育大学附属天王寺の音楽科諸石先生は、昨年の講評の中で、「唱歌・童謡は歌っているだけで日本的なものが身に付く。例えばさくらさくらなどは日本音階を用いているので、西洋音楽とは異なる響き、日本的なものを感じる。美しい歌詞(詩)の意味と相まって、歌っているだけで、自然と日本人としての情緒が身に付いていく。そして日本人としての骨格が形作られ、文化が伝承されていく。」
また童謡の背景を知ると、人としての「慈愛」や「もののあわれ」などが育てられる。
例えば“シャボン玉” これは野口雨情が、長女をわずか七日で亡くした時に作ったという説がある。
“背比べ”の詩の中に、「柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ」とある。作詞の海野厚は結核にかかり28歳でその生涯を閉じたが、17歳下の弟春樹に対する愛情あふれる詩である。「おととしの」には深い意味があるが、ここでは触れない。
童謡には心を揺すぶるものがある。詩も曲もいい。幼稚園において童謡に触れることは、情緒教育であり文化の継承でもある。そして懐かしさという高尚な情緒も育つ。まさに私の言うところの国語教育そのものである。
数首挙げてみましょう。
・日本は 入り口から さくらかな
・湯上がりの 尻にべったり しょうぶかな
・葉をむけば 汗かいており かしわもち
・燕の子 こぼれんばかり こぼれざる
・やせがえる 負けるな一茶 これにあり
・寝返りを するぞそこのけ きりぎりす
・大根引き 大根で道を 教えけり
・初雪や 二の字二の字の 下駄のあと
・雪とけて 村いっぱいの 子どもかな
この五七五のリズムが、子供の発達段階にあっていて、赤ちゃんが言葉を覚えるのと同じ感覚で俳句を暗唱し、自分でも簡単に作り出すようになります。
これらの俳句から、自然を見る目・優しさ・勇気・ユーモア などが養われるのは自明でしょう。
私は3年前、東日本大震災の報道:列を作り整然と順番を待つ人々、身重の方や体の弱い方を労る姿、自衛隊・警察・消防・海上保安庁の方々の我が身を犠牲にして復旧に携わっている姿を見て、逆に被災された方々から私が励まされているような気持ちになりました。
この混乱の中で略奪・放火などがほとんど起きず、泣きわめき不平不満を口いっぱいにしゃべる人の姿もほとんど見当たりません。(盗難もあったようですが、日常生活の中でも起こることです)
他国がまねの出来ない日本の国柄、日本人の誇りはどこから生れたかを私は知りたい。
そしてそのヒントは、この稿の中にあるように思います。
安野光雅さんと藤原正彦さん対談の「世にも美しい日本語入門」の中に、「日本の昔からの伝統とか文化とか美しい情緒が、祖国の誇りを生み、自分を支えてくれます」とあります。まさに幼い頃に触れた童謡や俳句が、大人になってから何かの折に胸から湧き上がって、これが力になるのです。
次の言葉でこの稿を閉めたく思います。
童謡にしても俳句にしても、早く触れないと大人になっちゃいますよ。