理事長エッセイ
先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り
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混迷の日本・教育について考える (No.2)
それでは、No.1 に引き続き、以下、今の状況をどのようにして変えていくことが出来るのか(?)どうかについて論じていく。
現在の教育の混迷の原因は、あまりにも多くの要素が絡み合っているが、混迷解決の要素をいくつかに分けて述べる。
(1) 教育は家庭から始まる
教育とは、より良い人間を育てることです。色々な物事に積極的に取り組むと共に、周りの苦しんでいる人・困っている人を助けたいと思い行動する人を育てることです。
基本的な生活習慣・善悪のけじめ・個々の世界観・行動基準は、家庭で学ばずにどこで学べるというのでしょう。
私達は、教育は学校からではなく家庭から始まるのだという事を再確認するとともに、親から子供への語りかけ・働きかけを充分にしていかなければなりません。
(2) 戦後の日本の最も大きな変化の一つは「家」「家族」
戦前から昭和30年代半ば頃までは、家族の中での上下関係、祖父母・父母・兄弟姉妹の順がはっきりしていました。年長者は敬われる存在であり、父母の言うこと、大人の言うことには従うのは当たり前でした。
家庭内の価値観は共有されていました。
子供は家庭において、祖父母や親から見守られ躾けられていました。伝統文化の行事が意識を持って家族で家中で行われました。父母の役割も明確でした。
昭和40年代の社会構造の変化が、家庭に対しても、大きな影響を与えました。
それまでは農家も非常に多く、職人文化が継承され、親の背中を見ていれば、長い伝統が子供に以心伝心で伝わっていました。ところが高度成長期のサラリーマンは、夜遅く帰って来て子供としゃべる事も少なくなり、語り継ぎが断絶しました。
敗戦によって日本の佳きもの素晴らしい伝統までが否定された事と相まって、過度な自由と平等が子供に与えられ、親から子に伝えられるべき人生の大切な教えが無くなりました。(注:自由という言葉の元は、?からの自由という規制つきであったのですが、日本では、絶対自由という恐ろしい概念となりました)
(3) 学校の変質
上記の流れを受けて、先生と生徒も友達のような関係が理想だとばかり、生徒の目線でということで、多くの学校で教壇が取り払われました。
強制は良くない、嫌なことは我慢してまでやらせなくてよい。それぞれに好きなことをさせることが個性の尊重であるとばかり、教育活動は、指導ではなく支援であるべきだという主張が広まりました。
この考え方に汚染された多くの教師が、生まれました。
子供や保護者に「良い所は良い、間違っていることは間違っている」と伝えることは、教師の哲学・信念とエネルギーが必要ですが、多くの教師は校長も含めて、安楽な方に流れました。
その結果、公立学校の現状は、約半数が学級崩壊(学校崩壊)し、そこに至っていないまでも、学校や教室で“ものごとを学ぶ”際の凛とした空気は、ほとんどの小・中学校からは消えてしまいました。
先生の多くは、教科指導ではなく生活指導に忙殺されています。
(4) 教育の本来あるべき姿
私の多くの教職経験から、次のことは明確な真理です。
教育は、特に幼児期から義務教育にかけては、強制を伴うものです。(ただその強制には強弱があり、各個人が強制されているという意識を持たない場合も多いですが……)
6歳から小学校に行かなくてはならないというのも、強制そのものです。
例えば、「おはようございます」「さようなら」「お大事に」などの日常の挨拶も、周りの人がしているのを見て自然に真似るようになるか、それとも、親や先生からある段階でその道理をきちっと教えられるかという、強制の強弱の違いはあっても、人間はそういう強制の中で、人としての軌道に乗って行きます。
幼稚園児の歌にしても、小中学校での漢字や九九の指導にしても、中学校での色々な教科指導にしても全て強制から入っていきます。しかし年齢が長じるにつれ、興味を持ち自主的に学びや研究を続けていくという事が起こってきます。
親と子が、そして先生と生徒が、友達の関係になっては、指導や教育はできません。
友達の関係にならないと心が通じあわないというわけでは、全くありません。
自分のことを心から願い指導してくれる親や先生に対して、子供は心を開き、その権威に対して敬いの心を持ちます。
ここを離れて、子育てや教育はあり得ません。
次に3人の方の意見を紹介致しましょう。
●大村はまさん「教えることの復権【1】」より
戦後の一番の失敗は、先生方が教えることをやめたことにあります。教えることは押し付けることで、本人の個性を失わせると、そういう話がたくさん出たでしょ。そういうのがちょっとしゃれて聞こえた。
戦後の教育の大失敗ですよ。
先生とは教える人でしょう。教えることを手控えてしまって、あの頃から教師が教師とは何をする人かというのを忘れたのではないかと思う。
「自由にやってごらん」と言って、先生はただ見ているだけ。「これでいいのでは」とか「こんなことを考えてみたら」とか、はっと気付くようなことを言えるのが教師ではないの。
教師が教えることをしないで何をするのですか。好きなことだけでなくて、嫌いなことでもやらなければならないことはやる。そういう人に育てるのでしょう。好きなことだけしかしないという自分勝手な子に育ててはいけません。
●藤原正彦 & 曽野綾子 「日本人の矜持【2】」より
藤原:いま、日本の教育を覆っている最大の病弊とは何か。それは子供中心主義です。「子供の個性を尊重せよ」「自主性を育む」「子供の人権」と、現在もてはやされているスローガンは、すべて子供中心に据えられている。
私に言わせれば、「子供の個性」のほとんどは、悪い個性なんですね。
野菜を一切食べないとか、親の手伝いをしないとか、テレビを毎日7時間も見るとか、授業中に歩き回ったり私語をやめないとか、嫌なやつをぶん殴るとか。
要するに、「わがまま」の言い換えに過ぎない。
いい個性のほう、例えば算数ができるとか,かけっこが速いとか、弱い子に優しいといった個性は伸ばすのは当然で、わざわざ目標に掲げるまでもない当たり前のことでしょう。
その意味で、私は原則的には、子供の個性は踏みにじれ、という立場なのです。
曽野:賛成です。そもそも教育というのは、子供が嫌だろうと何だろうと、大人の側から少なくとも最初だけは高圧的に与えるものだと思います。そうでなくては、しつけや教育というものは、初めから成り立つはずがない。教育は強制を伴います。
藤原:やはり親や教師は、言葉遣いでも、暮らしの中のしつけでも、自分が本当に正しいと思っている価値観を、ときに威圧してでも押し付けるほかない。嘘をついたり小さな者や弱いものに暴力を振るったら、問答無用で叱りつけなくてはならない。
生まれてから10歳くらいまでの間に大人に教え込まれた価値観は、長じて自分の価値観を形成するために必要不可欠な踏み台となります。
そういう価値観と共に、子供の将来を思う時、子供が嫌がっても、基本的な漢字や読み書き・九九などを、幼少期にたたきこんでやる。これが本当の親切です。
「子供の個性尊重」は、実は子供が本当に自分なりの価値観を作っていくのに必要なものを奪っている。その実態は、「子供の将来に責任を負わず、わがままを助長する」だけであって、百害あって一理なしです。
●川嶋優「日本人として大切にしたい品格の躾け【3】」より
先生は支援者という大間違い
今から20年ほど前になるでしょうか。
教育界におかしな風潮が出てきました。教育者や有識者たちが、「教師は指導者になってはいけない。支援者にならなくてはだめだ」と、言い始めたのです。
授業の指導案も支援案というべきだと云われました。
生徒たちの好きなようにするのに任せ、子供の横や後からついて行くだけなら、指導者ではありません。
同じころ、「子供の目線で」という言葉も流行りました。
子供と同じ目線に立つのは友達です。子供の心を理解するために、たまにはしゃがんで目線を同じにしてもいいでしょう。しかしあとはすくっと立って、立派な先生にならなくてはなりません。そうしなければ、お給料をもらう資格はありません。
親にしても教師にしても、権威があってこそ、教育の効果が上がります。権威とは威張り散らすことではありません。この人の言うことを聞いておけば間違いない、信じてついて行くことが出来るという信頼関係の上に立つ存在のことです。
(5) 実際の現場において
家庭教育を基本にし、その土台の上で、学校の先生が良い機能を果たしてくれるのが基本でしょう。が、そうなり得ない所に現在の問題点があります。
●誕生から幼稚園にかけて
☆幼いころに人間としての躾を行う
・基本的な生活習慣をつける
・善悪のけじめを知る
・人としての優しさを知る
☆物事を成し遂げたという達成感や喜びを数多く体験させる
物事に挑戦
→努力(我慢・辛抱の経験)
→本番での力の出しっ切り
→達成感と喜び
これらの経験を通して自尊感情が高められ、自分と共に周りの人をも尊ぶようになる。
幼稚園において、上記 ☆ のような骨太な面を育てることはとても大切です。
一生の宝になります。(安松幼稚園の実践をご覧下さい)
一方、幼稚園入園希望のお母さん方の多くの想いは、「子供が元気で伸び伸びと過ごしてほしい」ということにあります。
が、これだけでは、子供の発達段階から見て、あまりにも子供の能力を過小評価している事になります。お母さんの想いにプラスして、上記の2点の ☆ を意識しましょう。
いやむしろ誕生から3歳までに、排泄・名前を呼ばれたら返事をする・簡単な着衣の着脱・椅子に座って相手の話を聞く 等々の基本的な躾がとても重要なのです。
人間は、サバンナで産み落とされた草食動物のように誕生して1時間で走り出す能力はありませんが、周りを真似し記憶することにかけては、すごい能力があります。
子育てにおいては、子供の発達段階を大切にしたいものです。
(6) 小中学校の現状
日本の家庭が、学校教育が変わりました。
その結果、子供が変わりました。
ゆとり教育が、大変な状況を作り出しました。面倒くさい手間ひまのかかることは敬遠され疎ましいものと避けられました。
しかし、私達は立ち上がらなくてはなりません。
荒れている公立の小・中学校が多くあります。
●
保護者が、学校に関心を持ち、保護者としての責任を果たしましょう。登校したら着席して授業を受ける。ここまでは、親の今までの躾の問題です。親の責任です。
●
校長も、学校の内情を隠すことなくオープンにし、現状を保護者に訴えることです。
●
校長などの管理職も、怠惰な常識外れの教師や、「先生と子供は友達の関係がいい」「教育は指導ではなく支援である」等を主張する児童中心主義で教師の責任を放棄している教師に対しては、厳しい指導を願いたいものです。
●
それとともに、指導に従わない児童生徒に対しては、保護者にその問題点を直言すると共に、学校全体で指導の意思統一を図り、早い段階での教育委員会のバックアップが必要です。
●
授業妨害・教師への暴力・校舎の破壊 などに対しては、機に応じて警察の協力が不可欠でしょう。
(7) 最後に
教育は、国づくりの土台です。
意見の相違は、今の現状を見れば、ある程度は一致できると思います。
事態は、相当に深刻です。
一緒に立ちあがりましょう!!
参考文献
【1】「教えることの復権」 著者 大村はま(他2名) 発行所 筑摩書房
【2】「日本人の矜持…九人との対話」 対談 藤原正彦 & 曽野綾子 発行所 新潮社
【3】「日本人として大切にしたい品格の躾け」 著者 川嶋優 発行所 ベスト新書
理事長(安井俊明)職歴
大阪教育大学 実地講師(数学教育)
相愛中学校高等学校(校長)
大阪教育大学附属高等学校 天王寺校舎(数学科)
岸和田高校・清風南海高校・泉北高校・佐野高校定時制(数学科)を歴任
ここ約20年ばかりは、先生や職員の意識改革などの学校改革に取り組むと共に
学校法人真曜学園の理事長 並びに 安松幼稚園教諭として、幼児教育に携わっている。
著書も多数あり
理事長(安井俊明)著書など
(1)1980年代に、安松幼稚園と大阪教育大学数学教室の岡森研究室とが数年間、幼児の算数教育についての共同研究(数・図形・空間・時間 等 色々な分野について)を行いました。
教育内容の計画・立案においては、大人が机上で論理をふりかざすのではなく、子どもの実態と、子どものものごとのとらえ方・認識の仕方を見極めた上でなされるべきだということで、両者の意見は完全に一致し、共同研究の運びとなったものです。(その成果は、下記の著書に発表されています)
(2)第4回ICME(International Congress on Mathematical Education:1980.8.10?16アメリカ・バークレーのカリフォルニア大学)に参加、議長Freudenthal教授の基調講演の内容は、私たちが主張し既に実践していること(上記下線部)とまったく同一であることに、意を強くしました。
諸外国の方々との交流の中で、帰国後、安井俊明が基調講演を翻訳し発表しました。
(第一法規 算数・数学教育の研究と実践 p293―p309)
基調講演の趣旨:
教育の問題は、ひじかけ椅子や研究室の中ではなく、実際の子供がどのようにして学んでいくかという学習過程を観察し、その観察した事実の上にたって、解決されるべきである
その際、発達心理学の型をもち出したり、いたずらに統計的資料をこねまわすのは研究室の中での教育に関する研究にすぎず、これはむしろ教育の発展に有害でさえある。
(この文からJean? Piagetのことが頭に浮かばない研究者はいないでしょう:安井注)
(3)安松幼稚園での研究や実践を紹介した論文・安井俊明の著書のいくつかを紹介します。
著書
- ・
算数・数学教育の研究と実践 p4―p12,p33―p40 ,p293―p309 第一法規
- ・
子どもを生かす算数の考え方 p7―p37,p53―p82 明治図書
- ・
Mathematics? Education? and? Personal? Computers? edited by Hirokazu Okamori
- ・
-
数学教育 北京大学出版社 等々
注:算数・数学教育といっても、子どもの物事の捉え方・認識の仕方の研究から始まりますので、それら認識論は幼児教育そのものです。
上記の著書には、安松幼稚園の園児の授業風景の写真も多く含まれています。