理事長エッセイ
先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り
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子供中心主義・児童中心主義の終焉を願って
Ⅳ章.安松幼稚園の求める教育
★安松幼稚園の考える
教育の本道★子供児童中心主義
- 型、基本を大切に、時には強制も必要
- 子供の自由にしたいようにさせる
- 先生、親の凛とした姿勢(ユーモラスな会話やとことん抱きしめ誉めることも含む)
- いかなる場合も、先生・親と子供は友達関係で同じ目線
- 困難、障害を乗り越える力をつけたい
- 子供がいやがることはさせず、子供の周りから困難・障害を取り去る
- 先生と子供との真剣な関わり
- はれ物にさわるような保護主義
- 我慢し辛抱する経験も大切
- 子供には我慢や辛抱をさせてはいけない
- ちょっとした失敗の経験も必要
- 失敗すると心に傷がつくのでさせてはならない
- 相手のことを思いやる心を育てつつ適度な競争や切磋琢磨は必要
- 競争は悪であり、一切させてはならない
- 教育は指導
- 教育は支援
- 教え込みではなく、子供の発達段階を考え、子供との会話や触れ合いを通じ子供から引き出すことが大切
- 子供から先生にはたらきかけるまで、何もせずに待っている
Ⅴ章.教育とは、一つの型を次の世代に伝えること
[型(基本)の大切さ]
[入門期における教育は強制から始まる]
●昨今、個性の尊重は善であり、子供への強制は悪であると考える人が多く存在します。
私は、教育とは一つの型を子供達に伝えることであり、強制を伴うものであると考えます。型というのは、そのかなりの部分とくに入門期においては、物事の基本と言い換えることも可能です。
●新聞からいくつかの記事を紹介します。
先日の投書に、「書道教育は型にはめず個性的に」に反論します。
書道だけでなく、今日の教育改革に関して「個性を伸ばす」ことの重要性があらゆるところで説かれています。人にはそれぞれ「個性」があり、それをのばすことこそが、正しい教育のあり方というわけです。
しかし、この個性重視の教育こそが、今の子供達にゆがんだ人格形成をもたらしたと言わざるをえません。茶髪でたばこをふかし、だらしない生活を送ることが個性ということになりかねません。
物事を学ぶには必ず正しいやり方があり、そのやり方を踏襲し繰り返すことが、その道で大成する唯一のあり方なのです。
書道を例にとれば、例えばここに小さくゆがんだ字しか書けない生徒がいたとします。指導する側が、これを「個性」として認めてしまうことは、その生徒の長所を伸ばしたというよりも指導を放棄し安易に「妥協」したにすぎません。
人間は元来、個性的なものです。どんなに画一的に教育されても、それぞれの個性を消し去ることはできません。いったん「個性」を否定し、本来の教育のあり方を捉え直すことこそ、将来見事な個性が開花することにつながるのです。
仕事柄、正月でも分厚い新聞各紙を読まなければならないから、これが大変だった。そんななかで(小紙を除けば)興味深かったのは、日経・元日の俵万智さんと野村萬斎さんの新春対談である ▼俵さんは五七五七七に“チョコレート語”などの新風を吹き込んだ現代歌人、野村さんもユニークな感覚の能の舞台で若い観客を集めている狂言師。ともに千年紀(ミレニアム)以上の歴史と伝統をもつ日本の文化と芸能を世界に生きている ▼目をひかれたのは、その二人が口をそろえたように「型」というものの重要さを強調していることだった。俵「意外に思う方も多いですが、私は五七五七七は厳密に守っています。それが言葉に力を与えてくれるのです。よく五七五七七を壊したいのですかといわれるけれど…」 ▼野村「逆ですよね。制約があるからやりがいが出てくる。それがなかったらかえって…。子供の時は鋳型に入れられるようだったが、骨ができて自分の肉がついてくると面白くなってきます。それが十七、八歳の時でした。」 ▼古典には表現の型というものがあり、人びとの日々の営みのなかで培われた伝統として残ってきた。それが千年の蓄積の強みとなり、表現となって、現代感覚を生かすことができる。ただし言葉の変化のスピードは速く、二十一世紀はそれにますます拍車がかかるだろうと語り合っていた ▼「型」がなければ自由になれず、「型」があるから自由になれる、創造が生まれるという逆説の示唆が重くひびいてくる。たとえば職人や芸人の世界では“腰”が技芸の基本といわれていた。そういう「型」が失われているのが現代の社会の悲しい特徴だろう。
● 安松幼稚園での教育講演会で上記の趣旨について話したところ、松村悠子さんから下記の趣旨のお手紙を頂きました。
私事ですが、幼少の頃より箏(琴)を続けています。
ですが、若い頃に約数年間、レッスンを受けずに自己流で練習しプロになったつもりの時期がありました。しかし基本を未習得であった為、伸び悩み、いわゆる『型』の大切さに気付き、尊敬する先生の門下に入りました。
自己流スタイルも一時的に楽しいものでしたが、「型」を伴わない私は『女王様』状態と言えます。そのスタイルはレッスンを再開して、根底から覆されてしまったのです。
それから10年、遅まきながら型を習得しつつあり、本当の音を楽しめるようになりました。
このことから、『型』の必要性を個人的に感じています。 ……少し略……
今まで私が受けた教育の強制の少なさを嘆きたくもなりました。
以下略
型,強制について、ご自分の体験を綴られています。詳しくは H.P.のお母さんからのお便り H22.6~7教育そのものについて考える「教育は型・基本が大切」をご覧下さい。
● この章の最後に、もう1点曾野綾子さんのエッセイを紹介します。
教育は「幼い時」と「新しく或ることを始める時」には、往々にして強制の形をとるのである。それは長じた時と別だ。
まず小学校へ上がる。これも就学の意味を理解して自発的に学校へ行く子など例外だから強制である。
家元と名のつくような家の子供たちは、それこそ有無を言わさぬ強制から修行が始まる。
しつけというのもすべて強制だ。子供はお辞儀の仕方から時候の挨拶まで、親に言われたことを意味もわからずに渋々その通りにする。左側通行、電車に乗る時に切符を買うこと、食事の前に手を洗うこと、……自発的に納得したものでもないが、仕方なく従うのである。
そのうちに、お辞儀が最も穏やかで簡潔な人間関係の基本だと理解し、日本では左側通行を守らねばひどい交通事故が起きることがわかる。雑菌に多い土地に行けば手を洗う方が病気に掛からないですむ確率が高くなることを理解し、…
すべての教育は、必ず強制から始まる。イヌを、イヌという言葉で覚えさせるのだって立派な強制だろう。私がイヌをワニと言いたいと主張したら、意思の伝達は損なわれ学問の世界も混乱する。
しかし異常事態でない限り、強制をいつまでも続ける必要はない。
「幼い時」と「新しく或ることを始める時」強制の形で始まったことでも、やがて自我が選択して、納得して継続するか、拒否して止めるかに至る。
私はピアノを習わせられたがどうしても好きになれなくて中断し、小学校一年生から日曜毎に強制的に書かされた作文の練習は好みに合うようになって作家になった。…