理事長エッセイ
先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り
- ホーム
- 理事長エッセイ
子供中心主義・児童中心主義の終焉を願って
Ⅰ章.序
● 20世紀後半からの日本を考察すれば、65年前の戦後復興・50年前の所得倍増から経済的繁栄・そしてバブル崩壊から現在というものが視野に入ってくるが、その根本に流れているものは「生活第一」であった。
この間、個々人の安楽を求める事では首尾一貫し、その結果が、現在の日本を産み出した。
個人の安楽や生き方にのみ価値を置く戦後のスタイルは、人と人との人間関係を断絶し、多くの自己中心の若者を産み出した。自分の安楽や気持ちを守るために凶行に走り、またその対極として、引きこもりの生徒・学生・大人を多く輩出すると共に、公を考えないそして国家(国民の自覚すべき国家としてのアイデンティティー)を一顧だにしない人間を育てあげた。これらは異なる現象ではあるが、同じ根でつながっている。
生活第一のみという生き方や公を考えないという性向が65年も続けば、上記の事柄は若者にだけ見られる現象・思考とは言えず、日本人の特質と言えるまでに育った。
● さらには、先ほど述べた個人の安楽や生き方にのみ価値を置く戦後のスタイルの浸透は、家庭・学校・社会における子供中心主義・児童中心主義でもって、補強・加速された。
現在の日本の混迷を打破するには、教育・特に幼児から義務教育にかけての教育の方向・背骨を再構築することが急務であり、これこそが日本立ち直りの要点である。
新年に当たり、拙稿をお読みいただければ嬉しく思います。
Ⅱ章.子供の耐性を培うのは親の第一の責務
当節の若者のひ弱さを見るにつけ、本人のためにもこの国の将来のためにも、 |
以下の状況は、巷に溢れています。
●自分の思い通りにふるまう子とそれを許している母親
「ママのばか」と言いながら、親をけったりたたいたりする子
「○○してちょうだい」と、我が子にお願いする親
●小中学校の学級崩壊(個性という名の自分勝手)
授業中でも、しゃべりたい時にしゃべり歩きたい時に歩く子供達
そしてそれを的確に指導出来ない学校
●奇妙な大学生の実態(テレビの『一人で学生食堂にいけぬ学生』特集から)
そんな学生の多くはトイレの中で密かに一人で食事をすますという。その理由は、食堂で一緒に食事する友達がいないと馬鹿にされる、それが恥ずかしい、だからますます孤独になるという悪循環だとか。……哀れ、気の毒と言うよりも馬鹿馬鹿しい話で、……要するに当節の若者のひ弱さというよりない。
大衆の中にあっても場合によっては、なぜ堂々と一人きりでいられないのか。
家庭から一歩出れば、他者との様々な相剋があり得るのであって、そこでの抵抗力を家庭が培わせないからこのざまになる。
子供の耐性を養うのは親の責任であって、今日多くの親が子供をただ甘やかせて子供に媚びることで、実は子供を根本的に損なっているとしか言いようがない。
(産経新聞より一部抜粋)
●5歳児でも自分の欲望を抑え、周りの人の気持ちを大切にすることが出来る
動物行動学者コンラート・ロ―レンツから学ぶ |
動物行動学者のコンラート・ローレンツが説いた脳幹の問題である。
この豊穣便利な文明の中で、それに溺れて子供に我慢を強いなかった無責任な親たちが、子供の脳幹を発達させず、基本的にひ弱なそして自分勝手な『子供大人』を育てたのである。
脳幹とは、人間が人間として生きて行くために絶対に必要な、外部に対する強い反応を備えるべき部分であって、仮にそれが僅かでも損なわれば人間は死んでしまう。
暑さ寒さへの反応に始まり、怒り・悲しみ・愛情・憎しみといった人生に強い衝動をもたらす機能はすべて脳幹に備えられているが、物事に耐えてそれを抑制することで、脳幹すなわち人格は鍛えられる。
それは子供にとってはある種の苦痛でもあるが、それを強いることでの苦痛を超えることで、子供は鍛えられていくのだ。そして新しい楽しみを得ていくことになる。(まさに持久走そのものです) |
|
ローレンツは、『子供の頃甘やかされ肉体的な苦痛を味わうことのなかった子供は、長じて必ず不幸な人間になる』 といっているが、暑ければ冷房、寒ければ暖房、ひもじければふんだんにおやつといった現代文明の与える便宜のいたずらな享受は、結局耐性のない、つまり極めて弱い『子供大人』しか作り出さない。
●「強制はよくない、嫌なことは我慢してまでやらせなくてよい、それぞれに好きなことをさせるのが個性の尊重である」という子供中心主義・児童中心主義からは、子供の耐性は養われない。